18.10.31 Tue
今日で神無月が終わる。出雲大社に集まってた日本中の神様も、明日にはそれぞれの持ち場にお帰りになる。途中、有馬温泉にでも寄って、帰ってくるのが遅れる神様もいるに違いない。私の周辺にいる神様は、怠け者が多いから真っ直ぐには帰ってきやしない。ただ、事務所近にある鷲神社の神様のご帰還は早い。なんせ御祭神は天日鷲命と日本武尊。しかも11月4日は一の酉。大急ぎで帰ってきてください。
≪雑読・濫読メモ≫に『情報のさばき方』を追加しました。
≪雑読・濫読メモ≫に『頭の中の人生』を追加しました。
18.10.30 Mon
午後、仕事で埼玉は武蔵藤沢。帰路、池袋に着いたのが午後3時半。新宿でも感じることなのだが、池袋の雑踏を歩くにはエネルギーが要る。明らかに池袋は若者の街だ。例えばの話だが、原宿の街の平均年齢は15歳、渋谷は20歳、新宿、池袋は25歳、品川が30歳、神田が35歳、新橋が40歳、上野は45歳、浅草は50歳、と私は踏んでいる。平均年齢が30歳を超える街を歩くのにそれほどのエネルギーを必要としないが、それ以下はややしんどい。しんどいからって、興味もなく面白くもない街というわけではないのだが。
18.10.29 Sun
起きてるんだか寝てるんだか分からない一日を過ごす。春眠ではなく、秋眠暁を覚えずで惰眠を楽しむ。
18.10.28 Sat
仕事から事務所に戻り、今日と明日はオフにしよう。自宅への帰りは、伝助Ⅱ号にアイポットで中村雅俊、都はるみ、北島三郎、堀内孝雄。土曜の午後には演歌が似合う、と新たな法則を確立する。自室で、茂木健一郎の「脳の中の人生」をパラパラとめくる。変人であることの自由を読み、手をたたく。周りに合わせるという同質化圧力は、古今東西どこでもあろうが、日本はその傾向が強すぎる。同質化と創造性は相容れない。相容れないが、創造的と我がまま、身勝手とは全く異なる。ここを理解しない輩が多いのも、日本の特徴。しかし、人と違っていてもいいのです。なにかにに集中しているとき、左足と右足の靴が異なっていても気が付きません。スーツの上下が合っていないなんて日常です。私の場合は、クリエイティブというよりソソッカシイだけでありますが。
18.10.27 Fri
昼に、お客さんと事務所近くの「からくさ」で天ぷら。ビールと少々の冷酒を飲んだら、一気に酔ってしまった。風邪気味で疲れていたのだろう、と思うのだが、飲みすぎなのかもしれない。午後は、オフにさせていただいた。もちろん夜も。
18.10.26 Thu
昼のラジオ。TBSでは、永六輔の「誰かとどこかで」を放送している。ときどき聴くことがある。好き嫌いはあるだろうが、この永六輔なる人物は凄いと感服している。黒い花びら、上を向いて歩こう、女ひとり、などの作詞家であるだけでも、これをカラオケで歌う小生は、感謝しなければならないであるが、彼のブレのない生き方には畏敬さえしている。小生のように、フラフラと人生を歩いている輩からすれば、ブレず、ムレず、ナガサレず、なおかつ社会での立ち位置を持っている人物はスゴイ。あの声と話し方は気になるのだが。
18.10.25 Wed
夜は、門前仲町の山万平(やまへい)で事務所食事会。ここは、旨い、安い、サービスがいいの老舗居酒屋。しかも、私が密かに普及を図っている「いいちこ・緑の野菜割り」の深川地区拠点。たらふく食べて、飲んで、一日が終了。人生は斯くありたいと、模範のようなひと時。
18.10.24 Tue
朝、渋谷に出かけ、午後はそのまま津田沼。車中で読んだのが「人は50歳で何をすべきか」(長尾三郎)。一月ほど前に本屋で見て購入し、かばんの中に入れたままになっていた。著者があとがきで紹介している言葉を書き残しておきたい。中年は青春の午後である。そう、そう思う。55歳の私は、いま午後2時ぐらいか。ビールを飲む夕暮れ時を70歳ぐらいで迎えたい。そこから先は、ただただ飲むだけ。楽しむだけ。チョッと遅いかなぁ~。
≪雑読・濫読メモ≫に『人は50歳で何をすべきか』を追加しました。
18.10.23 Mon
クラシック音楽を聴いていると、好む好まないではなく、その作曲家の偉大さを感じる。特に交響曲を思うと、これを設計した人はまさに天才である。楽器が奏でる音を要素として、これらの要素を組み立てて交響曲を創り出す。ベートーベンの運命の構造は、西新宿のすべての高層ビルの設計構造よりも精緻である、と思う。彼は、各楽器の音を頭で構造化した。作曲家はみなそうである。これはすごい才能である。ギターを爪弾き何となくメロディーを作ることも凄いと思うが、交響曲は爪弾いてできるもんじゃない。そう思うと、私に才能は全くなくとも、人間の才は限りない。だから我々凡なる者も楽しく生きていくことができる。そう思いませんか。
18.10.22 Sun
朝3時に起きて、ヘッドフォンで音楽。近くの公園に少々散歩に出かけた以外は自宅。終日、マイルス・デイビスにマッコイ・タイナーにジョン・コルトーン。秋の日、手に取って読み出したのがパーカーの『初秋』。一気に読み終える。久しぶりに私立探偵スペンサーの言葉に反応する。15歳の少年ポール・ジャコミンを諭す、「起こるかどうかを考えるより、起きた場合にどうするか考えろ」、「苦しみに耐えて力をふりしぼる意志と自分の感情を抑える意志をつくれ」は秀逸。私が言ったんじゃ鼻先で笑われる。やはり身長185センチ、91キロの体重、ボクシングで鍛え上げた体から出た言葉でないと説得力がありません。
≪雑読・濫読メモ≫に『初秋』を追加しました。
18.10.21 Sat
土曜日の夕方、久しぶりに自宅にいる。ドボルザークを聴きながら、昨日か読んでいる大沢在昌の「狼花」を終える。夜は日本シリーズ。新庄のプレイを甲子園で見たかった。阪神がセリーグの覇者であったなら、とつくづく残念。
≪雑読・濫読メモ≫に『昭和史』を追加しました。
≪雑読・濫読メモ≫に『狼花』を追加しました。今年一押しのハードボイルド。
18.10.20 Fri
矜持、含羞、孤高、堪忍、尽力。そのうち国語辞典からなくなるのかもしれない。言葉は残っていても、そのありさまが消滅してしまったのかもしれない。協調、遠慮、気配り、も危ない。そんな心配をしてしまう出来事に出会った。もっとも私には、含羞という言葉はないようだが。
18.10.19 Thu
毎日毎日良く飲む、と自分でも感心する。今日もイソイソと飲みに出かけた。さすがに朝まで飲むことはなくなったが、それも相手がいないだけで、いれば朝まで飲んでしまうかもしれない。決して自慢しているのではない。自省している。反省ではないところが、私のイカンところ。自省と反省がどう違うのか、はっきりと分かっている訳ではないのだが。
18.10.18 Wed
今日も朝から勝どき。夕方は。南千住の尾花で鰻でもと出かけたのだが、休み。内装工事。仕方がないので、近くの寿司屋「大東京」に入る。下町の寿司屋に外れはない。競争が激しいから。トンカツ、焼肉、洋食屋もそうである。鰻の敵を寿司でまかない、満足して事務所に帰る。帰れば、ラジオで林家正蔵のジャズ番組。コルトーンを特集していた。コルトーンのサックスは哲学的な演奏と解説していた。さっぱり分からない。いくら丁寧に解説を聞いていても、コルトーンの哲学性が分からない。数多いコルトーンファンの一人として言わせてもらう。コルトーンだけでなく、ジャズ、音楽に哲学と言うものはない。作曲家にはあるだろうが聞き手にはない、と思っている。そこをどう解説してくれるのか興味深く聞いていたのだが、正蔵は全く説明しない。名曲アフターレインを、哲学的な音楽だと紹介しながら、その説明は一切なし。分かってねぇ。音楽てぇのは、理性ではなくて感性だ、と思う。酔った勢いで言わせてもらうが、正蔵は落語も分かってないがジャズも分かってない。書いてある原稿を読むような立場ではないだろう、アナウンサーではあるまいし、と久方ぶりに文句を言った。
18.10.17 Tue
いつの間にか寝てしまっていた。朝起きたら頭が痛い。二日酔い。最近、深酒をすることが多くなった、ような気がするのだが、私は常に深酒をしてきたような気もする。そんな痛い頭を引き連れて、仕事で勝どきへ。昼は、かの超有名店「井上」でラーメンでも食べるかと、勝鬨橋を渡って築地場外市場へ。長蛇の列。ありつくまでに一時簡以上はかかるだろう。即、諦めてサーモンいくら丼。築地場外には外れはない。外れはないが、値段と比較してどうなのかというと、そんなもんかと思う評価。それに比べアメ横は値段は安いが、味は当たり外れあり。いくら安くてもこんなのは食えねえよ、と思う店も多い。ただこれは、私に多少なりとも余裕ができたからであり、すきっ腹を満たすことが最優先される若者には、築地よりもアメ横のほうがやさしい。
18.10.16 Mon
実に爽やかな一日。珍しく終日事務所で、相続税の書類の作成。夜は、向かいの「たむら」で会食。それはそうと、1885年(明治16年)の今日、国鉄上野駅が開業した。お若い方はご存じないだろうが、我々の世代にとって上野といえば、井沢八郎の「ああ上野駅」(作詞関口義明、作曲荒井英一)。東北出身者も信越出身者も、東京で降りるところは上野駅。我々団塊の世代は、金の卵ともてはやされた時代があったのだ。この詩の碑が上野駅にある。どこにあるかはお探しいただきたいが、歌詞を書いておく。私も折に触れては心の中で口ずさんでみたい。この歌詞の少年、いや青年は、上野近くのラーメン屋か蕎麦屋で働いていたんだろう、と勝手に想像している。きっと大きな店の経営者として成功しているに違いない。人生をくじけないで遣り通せば、きっと思い描いたとおりに成功しているに違いない。そう思う。ちなみに井沢八郎の娘は、俳優の工藤夕貴である。
ああ上野駅
どこかに故郷の 香りをのせて
入る列車の なつかしさ
上野は俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった
就職列車に ゆられて着いた
遠いあの夜を 思いだす
上野は俺らの 心の駅だ
配達帰りの 自転車を
とめて聞いてる 国なまり
ホームの時計を 見つめていたら
母の笑顔に なってきた
上野は俺らの 心の駅だ
お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある
18.10.15 Sun
事務所から自宅に戻ったのが9時。昼過ぎには、娘夫婦の愛犬アニモ(邦名ぽん子)が来る。久しぶりに遊んでやり、いや遊んでもらう。しばし遊んで、一人と一匹は共に転寝。平和な一日でした。
≪雑読・濫読メモ≫に『小説の読み書き』を追加しました。これはお勧め。
18.10.14 Sat
朝起きたら頭が痛い。8割が二日酔いで2割が風邪。午前中は赤坂見附、午後は千葉は京成大和田、夜は西麻布の香港ガーデン。今週は、火曜日と土曜日が香港ガーデンで会食。ここは、この12月30日をもって閉店するという。営業は順調なのだが、親会社伊藤ハムの決断なのだろう。残り2ヶ月あまり。大いに利用させていただこう。しかし残念!!
18.10.13 Fri
夜は人形町で会食。途中までは良く覚えているのだが、後半は全く記憶にない。確か、2軒目はラーメン屋にいったような気がするのだが………。最近こういうことが良くある。長年の飲酒暦で、決して人に迷惑をかけていないとのかすかな自信はあるのだが、それとても不安に思うような記憶の欠落。気がついたら事務所に戻っていた。別に仕事をするわけではないのだが。
18.10.12 Thu
今日の日経新聞夕刊一面の「あずへの話題」でアドバンテスト相談役大浦溥氏が「静かなオフィス」というエッセイを書いておられた。是非、読んでいただきたい。静かなオフィスではいかん。賑やかなオフィスをとり戻す必要があるとの提案である。大部屋で上司が部下を大きな声で叱る。同僚は一生懸命に聞き耳を立てて、悩みを共有する。静かなオフィスの背景には、仕切られたブースがあり、コンピュータがあり、メールでのやり取りがある。上下左右の関係で仕事をするのではなく、キーボードと仕事をするようになっている。これでは気持ちを通い合わせることができない。悩みを持っていく場がなくなる。との指摘。全くごもっとも。効率化、IT化の影でチャップリンのモダン・タイムス化が進んではいけない。元気よく声を出して、叱り叱られ、喜び、悩む。職場での感情は共有しなきゃ。
18.10.11 Wed
ポケットの中にいろんなものが入っている。あまりお金の入っていない財布、手帳、定期入れ、名刺入れ、キーホルダーにハンカチとティッシュ。これがなくてはお手上げの眼鏡。なくてもいいのかもしれない携帯電話。物忘れの激しい小生はときどき忘れ物をする。これらのうち忘れる度合の多い銃に上げると、まずハンカチ。しょっちゅう駅のスタンドで購入している。次に定期いれ。これは物が薄いことに原因があるのかも。ついで財布。財布を忘れたときは、忘れたのか失くしたのか一瞬慌てふためく。不思議と携帯は忘れない。決して携帯が好きな訳ではないのだが忘れない。先ず忘れたことがないのは手帳。メモ魔の小生は手帳を忘れるということはない。手帳をポケットに入れると、安心をしてしまって他のものを忘れるのかもしれない。
18.10.10 Tue
午後は三田、夜は西麻布。入谷と異なる大都会。夜の灯りの種類が違う。入谷に戻ったのが22時。焼き鳥、ホッピーの提灯にホッとする。チョッと飲み足らねェ、と飲み出したらラジオで中日の優勝を報じていた。阪神は今岡と久保の故障が痛かった、なんて思っているうちに寝てしまい、気が付くと1時間ばかり転寝をしていたことになる。ヘルマン・ヘッセは「人は50歳になると、ある種の子供っぽい愚行をしたり、名声や信用を得ようとしたりするすることをやめる。そして自分の人生を冷静に回顧し始める。」と言ったらしい。ヘッセの言う50歳を過ぎて5年。相変わらずガキっぽいことをしている。おそらく、冷静に回顧するような人生が自分にはないのかもしれない。
18.10.9 Mon
朝起きたら喉が痛い。寒気がする。事務所で仕事をするつもりでいたが、自宅で休養をとることにした。2連休とは夏休み以来。連続して4時間眠ることは難しいが、断続的にはいくらでも眠ることができる。そこで入ってきたニュースが北朝鮮の核実験。核爆弾の被災国である日本人としてこれは絶対に許せない。とにかく何でもありはイカン。喧嘩だろうと戦争であろうと、何でもありはいかん。アメリカも核を捨てろ、というのは国際政治の力学からは全く見当違いなことはわかっているが、でも言いたい。相性というものがあって、全世界の国々が仲良くなるのは無理に決まっている。だからといって核攻撃はいかん。自衛のためといったって、持ってりゃ使いたくなるし、使うぞ使うぞと恫喝するの決まっているんだから。
≪雑読・濫読メモ≫に『警視庁捜査一課殺人班』を追加しました。
≪雑読・濫読メモ≫に『人の心はどこまでわかるか』を追加しました。
18.10.08 Sun
久しぶりに仕事のない日曜日。自宅自室に閉じこもり読書日。あれやこれやと手を出しているうちに、何を読んでいるのか分からなくなってきた。充実納得の一日。
≪私の好きな下町とお店≫の上野地区に『上野精養軒』を追加しました。
18.10.7 Sat
自分が満足するために、他人に努力や労苦を強いる人がいる。実に嫌な奴であるが、私がそうである。今はそれほど無理強いをしなくなったが、宴席では人に酒をやたら勧める。とにかく私と同じように酔っていただくなくては面白くない。マァ、これくらいなら酒の席ということで大目に見ていだけようが、これが普段の生活で現われようものなら堪ったものではない。あれをしろ、これをするなとよくよく考えれば、言ってる本人が満足をするため。こんなわがままな奴とも付き合っていかなければならないのも渡世の定めだが、歳とともにだんだん御免蒙りたいと思うようになってきた。
18.10.6 Fri
外は大雨。久しぶりに終日事務所で仕事をする。夕方から大家である東京菓子協会の記念日。夕方から5階の大会議室で開催された懇親会に、事務所スタッフとともに出席。今週もよく飲んだ。北朝鮮の核実験も恐ろしいが、減量からのリバウンドも恐ろしい。
18.10.5 Thu
お客さんと松が谷の太助寿司。400グラムのキンキの煮つけを食べ、減量を始めてから控えていた日本酒を久しぶりに飲んで、いつもの通りほろ酔いを通り越して酩酊。そのうちケイジ(鮭児)が入るという。太助の親父さん、頼みます。忘れずに連絡してよ。
18.10.4 Wed
丼の種類は数限りないことは想像していたが、生卵のてんぷら丼というものがあるらしい。食文化のパイオニア(?)名古屋にあるという。生卵をてんぷらにする。温かいご飯の上に乗せる。特有の醤油タレをかける。箸で割ると、じゅわぁ~、と半熟の卵がとろけだすという。昨晩NHKラジオで放送していた。私は想像力の乏しい人間であるが、こと食い物に関しては全エネルギーを費やして想像する。これは美味いに決まっている。フライでも良いのではないか。でも、どうやって揚げるのだろうか。ラジオで説明していたのだが、殆んど酩酊常態で聴いていたので良くわからない。どなたかご教授いただけませんか。
18.10.3 Tue
評論家の佐高信は、大学時代の同級生である現某閣僚を指して、「彼には何も期待しない。昔から彼には自分というものがない。だからいつも他人の道具になっている。」と書いていた。相変わらずの直球である。他人の道具かどうかの真偽は別にして、この「自分」というものは何であろうか。河合隼雄によると自我(自分)の確立要件は、①現状把握ができていること、②自分が何を感じているかが分かっていること、③自分の欲望が明確であること、したがって④自分で物事を判断できることなどを挙げている。小生にとって、この現状の把握というのはけっこうシンドイ作業である。生きてる実感と己の欲望は、そこそこ明確なのだが、その前提となる現状認識となるとやや覚束ない。したがって根拠なき自信や根拠なき不安に右往左往することになる。現状とやらと折り合いをつけて生きていくのはけっこう難しい。
18.10.2 Mon
河合隼雄の「人の心はどこまでわかるか」(講談社)を読んでいて思わず引き込まれた。「心理療法家は、相手から『逃げている』と思われたら、そこまでです。」と書いてある。逃げないということは、「そこにいる」ということである。体が「そこにいて」も、心が逃げていては心理療法家(カウンセラー)とクライエントの人間関係は成り立たない。これは心理療法だけの問題ではない。いつも「そこにいる」ように感じることのできる相手を友人というのだろう。いつも「そこにいる」と感じてもらえる人間でありたい。そのためには相手から逃げてはならない。河合先生は、72歳のときに書かれたこの本で、自分はまだまだ研鑽が足りないと自省されている。小生なんか、まだまだまだまだ修行が足りん。相手からよりも自分から逃げることが多々ある。
18.10.1 Sun
意志決定の不思議性というか、意外性というか、困難性というか脆弱性。レストランでメニューを見る。子牛、子羊、鴨などその素材は良く分かるのだが、味付けが分からない。フランス料理の妙味は、素材よりも味付け(ソース)である。これがカツ丼や天丼、中華丼、鰻重ならその素材も味覚も十分に分かるのだが、上野精養軒のグリルフクシマようなレストランでフランス料理のコースメニューとなると、味付けの予測はお手上げである。ならば選択の基準は、最も明確である価格で判断すればよいことになる。これが難しい。いや、私にとっては難しい。コース料理なんて高々二つか三つである。そのなかで素材を選ぶ。素材によってコースが分かれるのではなく、提供される品数によってコースが異なるのだが、これが決まらない、私の場合は。そこで、いつも決めた振りをする。係りの者が、お決まりでしょうか、と声をかけてくる。意志決定は、まさにその瞬間に行われる。とっさに口から、無意識に出るのである。その拠りどころが分からない。素材なのか、同伴者なのか、体調なのか。統計的にはBコースが多いだが。